日本で最初の本格的な寺院「飛鳥寺」について調べてみた!!(奈良県明日香村)

飛鳥寺と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
日本最古の仏像「飛鳥大仏」がある。
大化の改新で中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が出会った蹴鞠会の場所である。

東大寺の大仏ほど有名ではありませんが、教科書に載っている重要な歴史的事件がここでありました。
飛鳥寺
(▲ 多武峯縁起絵巻)

今はその頃の飛鳥寺は存在しませんが、飛鳥寺は日本最古の本格的な寺院であるため、試行錯誤しながら造られたことがうかがわれます。
飛鳥寺が以降の寺院建設の基礎となったことは間違いないので、現在わかっていることを整理してみます。

現在の飛鳥寺は、中金堂の位置に安居院(あんごいん)という寺院が建っています。当初「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの名称で呼ばれてきました。

これほど由緒ある飛鳥寺も、鎌倉時代に落雷で焼失してからは荒廃がひどく、飛鳥大仏だけが残されたようです。
1632年(寛永9)に小さい仏堂が寄進され、破損している飛鳥大仏が補修されて、現在の真言宗安居院につながっています。

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飛鳥寺建立の経緯

日本に仏教が伝来したのは、「上宮聖徳法王帝説」では538年、「日本書紀」では552年と諸説あります。百済の聖明王から釈迦如来像と仏具・経論が贈られました。

その後、蘇我稲目と物部尾輿の間で仏教の受け入れに関して争いが起きます。それが子供の時代に引き継がれ、蘇我馬子と物部守屋との間で武力衝突に至ります。

このような状況の中で、日本書記の中に記述があります。
秋七月に、蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣によびかけ、物部守屋大連を滅ぼすことをはかった。物部氏の軍勢は強くさかんで、家に満ち、野にあふれた。諸皇子と群臣の軍衆はおじ気づき、三度も退却した。この時、廐戸皇子(聖徳大師)は自分で戦況を察して、「敗れるかもしれない。誓願しなければ、成功はおぼつかない」といわれ、白膠木( 霊木の一種) を切り取って素早く四天王の像に作り、頂髪に安置して誓願を発し、「今自分を敵に勝たしていただけるなら、きっと護世四王のみために寺塔を建立するでありましょう」といわれた。蘇我馬子大臣もまた誓願を発し、「およそ諸天王・大神王たちよ。私を守り助け、勝利を与えてくださるなら、きっと諸天と大神王とのみために、寺塔を建立し、仏法を広めるでありましょう」といった。誓願し終って武備を整え、進撃したところ、迹見首赤檮が大連を木のまたから射落し、大連とその子たちとを殺した。このため大連の軍はたちまち戦いをやめて敗走し、みな皁衣を着け、広瀬の勾原で狩猟するふりをして逃げ散った。この戦のため、大連の子どもや一族は、ある者は葦原に逃げ隠れて姓名を変え、ある者は逃亡して行方不明になった。当時の人々は、「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹だ。大臣はみだりに妻の計略を用いて大連を殺したのだ」と語り合った。乱の平定後、摂津国に四天王寺を造り、大連の奴の半分と邸宅とを分かって大寺( 四天王寺) の奴と田荘( 私有地) とにした。また田一万頃を迹見首赤檮に賜った。蘇我大臣も、当初の誓願どおり、飛鳥の地に法興寺( 飛鳥寺) を建立した。(『日本書紀 下』井上光貞監訳一九八七より引用)

誓願の通り、聖徳太子と蘇我馬子は、寺院を建立しました。

日本書紀に造営過程が書かれています。
587年(用明2) 蘇我馬子飛鳥寺造営発願
588年(崇峻元) 飛鳥寺造営開始
592年(崇峻5) 仏堂( 金堂) と歩廊( 回廊) を建てる
593年(推古元) 塔心礎に仏舎利を置き、心柱を立てる
596年(推古4) 飛鳥寺完成、善徳( 蘇我馬子の息子) を寺司にする、2僧が住む
605年(推古13) 鞍作止利を造仏工に任命、飛鳥大仏を作り始める
606年(推古14) 飛鳥大仏完成、金堂に飛鳥大仏が置かれる

他寺院については、
593年(推古元) 四天王寺造立開始
607年(推古15) 法隆寺(斑鳩寺) が完成する
639年(舒明11) 百済大寺の建立を開始する。九重塔を建てる。
641年(舒明13)山田寺造立開始

これらにより、日本で最初の本格的な寺院であることがわかります。

飛鳥寺伽藍の発掘調査

飛鳥寺は、1956(昭和31)から奈良国立文化財研究所が発掘調査を開始しました。
そこでわかった事は、法隆寺西院でも四天王寺でもない伽藍配置でした。
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法隆寺西院伽藍は、東側に金堂・西側に五重塔を配置しています。

四天王寺伽藍は、中門・塔・金堂が一直線に配置しています。法隆寺の創建当初の若草伽藍も、四天王寺方式であったとわかっています。

飛鳥寺も、発掘当初は四天王寺方式の伽藍を想定して進めていましたが、想定位置に回廊が発掘されないので不思議に思ってたそうです。

そして発掘されたのが、塔を中心に「東金堂」「西金堂」「中金堂」を配置したどこにもない伽藍配置でした。
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塔の中央部を掘る

初期の寺院は心礎が地中深くにあり、心礎中央に舎利を納めた孔があります。
飛鳥寺では、地表面から約3m下に心礎が据えられています。

塔が落雷で焼失した翌年の1197年(建久8)に東大寺の弁暁上人(べんぎょう)が、「大和国本元興寺の塔心柱より掘り出し奉るところの御舎利其数百余粒ならびに金銀器物等本縁の事」という表題の書類の下書きが残っています。

この時に一度仏舎利を掘り出し再度埋設したとあり、塔中心部掘削に期待されます。

上面の表土を剥ぐと、塔の基壇を構築した土層が現れます。その中央に直径2m位の黒い焼け土があり、深さ80cm位のすり鉢状のこの穴の土をのけると、花崗岩が二個二段に重なって埋まっていました。

二個の石は合わせ面が平らに加工され、石の中央に円錐形の穴があいていて、上下で一対の容器のように使用されていました。

下石の孔の泥を取り除くと、四角い木箱(10.8cm角)が納められていてその周りには、ガラス玉・金銅製鈴・金銅製円盤・垂飾・琥珀片等が詰まっていました。
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また、木箱の中には金銅製の舎利容器とトンボ玉や琥珀片が一緒に入っていました。
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舎利容器は、その形態から鎌倉時代のものであり、1197年の弁暁上人の記録にある通り仏舎利を納め直した時のものと思われます。
埋納物は、創建時のままの姿ではありませんでしたが、わが国最初の寺院の塔の舎利荘厳具として貴重なものです。

そして舎利容器の中にあった舎利は数粒でした。100余粒と記録にあった舎利はどこへいったのでしょうか?

そして、心礎はその下にありました。現在の地表面から2.7m下のところでした。

飛鳥寺心礎
(▲ 上部が心礎、中央の穴が舎利埋納用)

塔の埋葬品で気づくことは、古墳の副葬品との共通性を感じます。

飛鳥大仏

飛鳥大仏は、鞍作鳥(くらつくりのとり-止利仏師) が造ったと「日本書紀」は伝えています。
鞍作鳥は飛鳥時代に活躍した仏師で、代表作は法隆寺金堂釈迦三尊像があります。

日本の天皇が初めて造仏すると聞いた高句麗の大興王は、黄金300両を送っています。
一年がかりで製作した仏像を中金堂に安置しようとしたところ、仏像の高さが中金堂の戸丈より高いため搬入が困難だったため、扉を壊して入れようとしたが、鞍作鳥は戸を壊さず搬入する方法を考案したと言われています。

鞍作鳥はこの功績を認められ、天皇より大仁の位を授けられ、近江国坂田郡の水田20町と鞍作鳥の居住地に坂田寺を建立してもらいました。

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そして、百済で製作された弥勒石造を東金堂に、丈六釈迦像を西金堂に安置したものとみられます。

当初蘇我氏の私寺として建立された飛鳥寺(元興寺)ですが、次第に国家寺と変換されていきました。

槻の木広場

槻の木(つきのき)はケヤキの古名であり、槻の木広場で中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会った場所です。
飛鳥寺の西側に蘇我入鹿の首塚があり、首塚の南側が槻の木広場といわれています。
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(▲ 西門跡と首塚-西門を出た左側(南)に槻の木広場がある)

現在、この付近「飛鳥寺西方遺跡」として発掘調査中であり「石列」「石敷」などが発見されており、詳細な発掘成果があがってくると思います。
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現在の飛鳥寺

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(▲ 中金堂の礎石)

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(▲ 南側から望む-田圃の位置に中門があり中心に塔・右側に東金堂・左側に西金堂があった)

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(▲ 西側から望む-西門付近から撮影)

(参考資料)
飛鳥資料館図録15冊(飛鳥寺)
飛鳥の寺と国分寺(坪井清足著)
「飛鳥寺と飛鳥大仏」DVD解説書(明日香村・関西大学文学部考古学研究室)

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