飛鳥最大の幻の寺院「大官大寺」について調べてみた!

東大寺規模の伽藍と、100mを超す九重塔のある大寺院が飛鳥にあった事を知ってますか?
それは、藤原京にあった「大官大寺」だ。

大官大寺は、「日本書紀」「大安寺伽藍縁起」などの文献資料に「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されているが、正確なところはわかっていない。

「官寺」とは、天皇が建立し朝廷により経営される国立の寺院をさす。
「大寺」は、文字通り大きいくて重要な寺であるが、「私寺」に対して「官寺」の事を言うのが原義である。

大官大寺は、百済大寺(吉備池廃寺)から高市大寺・大官大寺そして大安寺へと移転しながら変遷していると記録にあるが高市大寺については定かでなく、未だにわからないことが多い寺である。

昭和48年以降の発掘調査により、中門・金堂・講堂・塔があることが確認され伽藍全体配置が明らかになり名前の通り「大寺」であることがわかってきた。

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回廊に囲まれた範囲だけで東西144m・南北195mと東大寺創建当時の回廊規模と同じであり、塔も基壇の規模から推定すると九重塔と推定される。

これほどの大きな寺を、飛鳥に訪れたことがある人でもほとんど知らないと思う。

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大官大寺跡

場所は、天香久山の南麓から南の飛鳥盆地の北側にあたる。今は、水田地帯に残る2つの土壇だけがかつての伽藍の一部をしのぶものとなっている。大官大寺跡の石碑がなければ気付かないだろう。

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(▲ 藤原京内の位置)

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(▲ 金堂基壇跡)

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(▲ 塔基壇跡)

伽藍
(▲ 上空から見た伽藍配置)

伽藍規模

回廊で囲まれた伽藍の大きさは、東西144m、南北195mと格段に大きい。
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飛鳥の代表的な寺院、飛鳥寺・川原寺・山田寺・紀寺と比較するとその大きさがわかる。
その後の時代の、薬師寺より大きく東大寺の創建当初の伽藍規模とほぼ同じである。

文字通り飛鳥最大の寺院であることがわかる。

金堂

金堂も礎石を抜き取った位置から推測すると、建物の規模は、正面が45.2m・側面が20.7mあり、これが二重屋根の重層建物とすると高さは28mで8回建ての建物に相当する高さである。

これは、藤原京・平城京の最も重要な建物である大極殿に相当する大きさである。
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(▲ 平城京大極殿)

講堂

講堂は、基壇が削られていたが、10か所の礎石抜き取り穴が見つかり、それから推定すると金堂と同一規模の基壇と推定される。

基壇の周囲に建物の部材が火災によって焼け焦げ地面に突き刺さった痕跡があった。

塔の心礎は、明治22年橿原神宮の造営資材として搬出され今は失われている。明治時代の初めに、岡本桃里が画いた図面によると、南北3.6m・東西3mの巨石として記されている。

大官大寺の塔は、一般的な塔のような四天柱(心柱の周囲を4本の柱で囲う柱)がない特殊な構造で、塔新から4.4m外側に入側柱、さらに3m外側に側柱を置いている。

「扶桑略記」や「伽藍縁起」に、九重塔が建てられたと伝えている。
初重が5間・柱間10尺(3m)で一辺15mとなり、東大寺七重塔(一辺16.5m)に匹敵し、100m超えるものと推定される。

発掘調査では、基壇の外装が実施されておらず、多量の焼土や焼瓦が堆積し装飾金具などが出土した。これは塔本体が完成後、基壇の外装工事が着手されないままに火災に見舞われたと思われる。

中門

中門の礎石が残っておりそれから、正面23m・側面12mであり、中門の基壇の上や周囲に建物を造営するときの足場穴が規則正しく配列されていた。

柱穴内部には、焼変した炭化物が確認されている。

回廊

回廊の各所で基壇面が赤く変色し火熱の跡があった。

特異な伽藍

1、東側だけ塔を配置している。
西側にも塔を配置する計画があったが、完成を見ず消失してしまった可能性が高い。
2、講堂が回廊の中に取り込まれている。
この頃の寺院は回廊内は聖域であり、一般の僧侶が入れる構造ではないのが一般的であった。
隔絶された聖域の内部にある講堂は、一般の講堂以上の性格を与えられていたと考えられる。

伽藍炎上

発掘調査により、伽藍のほとんどが炎上した痕跡をそのままとどめている。
推測されることは、金堂・講堂は建物と基壇が完成しており、塔は建物は完成したが基壇の工事途中であったと思われる。

中門や回廊は、建物自体の工事途中で火災に遭ったと考えられる。

大官大寺焼失の記録は、「続日本記」「伽藍縁起」には記入されておらず、「芙蓉略記」に記入されているだけである。

それによると、平城京遷都の翌年である和銅4年(711年)のこととされている。

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(▲ 焼け跡が残る発掘された瓦 奈良文化財研究所)

その後

平城京遷都後にまもなく焼亡した大官大寺のその後を記録しているものは少ない。
しかし、天平19年(747年)の「大安寺伽藍縁起井流記資材帳」に、大安寺の荘園の一つとされているので、かつての寺域は田畑となってしまったのであろう。

千年以上たった今でも金堂や塔の基壇の跡がのこっているのは、大官大寺の旧跡として語り継がれてきた結果であろうか。

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(▲ 香久山方面を望む–正面の山が天香久山)

アクセス

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歴史

622 (推古二十九) 推古天皇、田村皇子を遣わして聖徳太子の病気を見舞う。太子、熊凝精舎を大寺と成すことを欲す。
639 (舒明十一)  百済川の側に百済大寺を建て、九重塔建つ。 九重塔と金堂石鴟尾が焼ける。
645 (大化元)   恵妙法師、百済寺の寺主となる。
668 (天智七)   丈六釈迦仏像并脇士菩薩等の像を安置する。
677 (天武六)   高市大寺を大官大寺とあらためる。
682 (天武十一)  百四十余人、大官大寺にて出家する。
684 (天武十三) 天皇不豫、群臣百官、大官大寺に詣ず。
685 (天武十四) 天皇不豫、大官大寺・川原寺・飛鳥寺において経典を読誦させる。
699 (文武三)  九重塔を建て七宝を施入する。
701 (大宝元)  下道君首名、大安寺にて僧尼令を説く。大安寺・薬師寺を造る官を寮に准することを定む。
711 (和銅四)  大官大寺、藤原宮とともに焼ける。
716 (霊亀二)  大官大寺、平城京へ移る。
722 (養老六)  元正天皇、供養具と幡を施入する。
723 (養老七)  元正天皇、一切経を施入する。
729 (天平元)  道慈、大安寺の造営に関与する。
733 (養老五)  大安寺僧普照・栄叡、授戒師を招聘するために遣唐使として入唐。
736 (天平八)  中門・回廊に羅漢画力士像等を造る。 唐僧道、インド僧菩提僊那、ベトナム僧仏哲が来朝し、大安寺に住す。
745 (天平十七) 大官大寺を大安寺とあらためる。
大安寺ホームページより抜粋

参考資料:
飛鳥資料館カタログ第8冊大官大寺
飛鳥幻の寺。大官大寺の謎(木下正史著)

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