「頭塔」玄昉の首塚ともいわれている奈良のピラミッドを調べてみた!!

奈良市高畑町に、土と石で築いたピラミッドのようにも見える「頭塔(ずとう)」という遺跡がある。
1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている

「頭塔」という変わった名前の由来は、奈良時代に政界で活躍した僧・玄坊の首塚であるとする伝説によると言われている。

土塔(どとう)がなまって「頭塔」になったという説もあるが、玄昉伝説の方も面白いのでこちらも調べてた。

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南都名所集

とりあえず江戸時代の観光案内書である「南都名所集 巻第六(1675年頃)」を見てみた。

「これなるは玄昉僧正の髑髏(どくろ)を納めしところなり。
この人天平18年6月18日に、備前国大宰府の観世音寺供養せらしき時に導師にて、高座に登りたまひしに、俄かに空掻き曇り、雷夥(おびただ)しく鳴りて僧正の上に落ちかかり、首をとりて雲中にはいる。
・・・・枯髑髏に玄昉といふ銘を書きて、興福寺唐院の庭に落とし、・・・・その弟子どもこれを取りて塚につき、その内に納めて頭塔と名付けたるよし、「平家物語」に見えたり。
・・・・雷神は、藤原広継(広嗣)の霊なり。」

平家物語(1240年頃?)が出所ということなので、調べてみると「平家物語 巻第七」に同一内容の玄昉の記述がある。

平家物語以前としては、大江親通が嘉承元年 (1106) と保延6年(1140) に南都を巡礼したときの記録『七大寺巡礼私記』に、奈良時代の僧玄坊の首塚について記入されている。

藤原広嗣の怨霊

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(▲ 藤原広嗣 『前賢故実』より)

藤原不比等亡き後、長屋王を政権から追い落とした藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が、天平9年(737年)天然痘で死去し、藤原氏の勢いが後退し政権の首班は橘諸兄(たちばなのもろえ)となった。

橘諸兄は敏達天皇の子孫で元の名前を葛城王といい,後に母の橘宿禰を継ぐことを願い許可され,以後は橘諸兄と名乗るようになった.

天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)は、大和から大宰府に赴任させられ、それを左遷ととらえ不満を抱いた
橘諸兄が右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。

天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文(じょうひょうぶん)を天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。

しかし、朝廷はただちにこれを謀反(むほん)と断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡(おんがぐん)に軍を構えた。

広嗣公率いる大宰府軍は広嗣公、綱手、多胡古麻呂など1万、官軍は大野東人、紀飯麻呂、佐伯常人、安部虫麻呂など1万7千であった。

10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。

その後僧玄昉は天平17年筑紫に配せられたが、観世音寺落成式に臨んだ時、急死した。世の人はこれを広嗣公の祟りとした。真備もまた孝謙天皇が即位してから肥前に左遷された。

この左遷に際し、広嗣公の霊を祀り鏡尊廟(現唐津市の鏡神社)を建てて崇められた。それ以降、霊信仰が世にあらわれた。かの頭塔伝説においては、玄昉が築紫に急死するやその遺体は奈良の地に飛散して、興福寺の境内に落ち、首は頭塔(ずとう)山に、腕は肘塚町(かいなちょう)に、眉と眼は大豆山町(まめやまちょう)に飛来したとの口碑が伝えられている。これは、広嗣信仰が背後にあったからである。

出典>>「鏡神社小誌」等

実忠の土塔

大正5年(1916)、佐藤小吉が「頭塔」の石仏を学会に報告した際に、元来は土で築いた塔であって、頭すなわち頂上に十三重石塔を置いたので頭塔と呼んだと推定した。
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その後、「頭塔」は注目を集め石仏が摩耗する恐れがあるため、大正11年(1922) に史跡に指定された。

①『東大寺要録』巻七「東大寺権別当実忠二十九箇条事」の「奉造立塔一基く在新薬師寺西野。以去景雲元年所造進也。」
②『東大寺要録』巻六「新薬師寺 実忠和尚西野建石塔。為東大寺別院。」
③『東大寺別当次第』大僧都良恵の項、「神護景雲元年、実忠和尚依僧正命、御寺朱雀之末、作土塔。」
①②③は、同じものと推定され、所在地は新薬師寺の西側で東大寺の南端であり「頭塔」と一致する。

現在は、実忠(じつちゅう)が神護景雲元年(767) に造立したというのが、定説となっている。
実忠(神亀3年(726年))は、奈良時代の僧で、東大寺二月堂のお水取りは実忠が始めたものとされる。

「東大寺権別当実忠二十九箇条事」には実忠の造塔の目的を「奉為国家」としている。
堀池春峰は具体的に、百万塔や十大寺の小塔院の造営と同じく恵美押勝の乱を契機として人心安定を図ったものとした。

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「頭塔」の発掘調査

1987年から、本格的発掘調査が始まった。
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(▲ 史跡頭塔発掘調査報告書より奈良文化財研究所)
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(▲ 現在の状況)

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(▲ 頭塔南側より)

頭塔は平城京外京の四条大路の東延長部上で、東大寺中軸線の南延長部の西約100mに造営された仏塔である。土盛りを芯とし表面を石積・石敷で覆って瓦葺屋根を乗せる特異な構造をもつ。『東大寺要録』や『東大寺別当次第』が記す、神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が造った「土塔」に当たる。発掘調査の結果、下層・上層の2時期があると判明した。

下層頭塔上層建設時の破壊がひどいが、基壇を持つ三重搭に復原でき、ひとたびは完成していたと推定する。

上層頭塔下層の基壇を踏襲するものの、塔身のかなりを破壊し埋め尽くし増拡したものである。

下層・上層の築造年代はいつか?下層の造営にあたり古墳を破壊したことが判明し、これを正倉院文書「造南寺所解」の記事と関連付けることによって、下層の造営開始年代を天平宝字4年(760) 頃と推定する。上層への改造は天平宝字末年から天平神護頃に始まり、竣工が『東大寺要録」・『東大寺別当次第』が記す神護景雲元年(767) と推定する。

奈良末以降宝亀年聞から長岡宮期に、落雷で頂部施設が焼失・廃絶したので、心柱を抜き取り、緒銭・琉拍玉を投入し祭胞を行ってから埋め戻した。平安時代初頭に、同位置に銭貨を埋納し地鎮をおこなってから、凝灰岩製六角屋蓋十三重塔を建立した。その後、瓦主主屋根や石積が崩境し始め、石仏が露出するようになった。平安時代末の『七大寺巡礼私記』に頭塔を「十三重の大墓」と記すのは、こうした状態の描写と推定できる。

出典>>史跡頭塔発掘調査報告書

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(▲ 整備前の頭塔)

奈良県教育委員会は、頭塔の本来の形を解明し、その成果をもとに整備し、より広く公開することを構想した。ただし頭擦の森としての現状にも価値を認め、南整備の方針半分は現状のままとし、北半分についてのみ発掘調査、整備することとした。

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(▲ 予想復原図面)

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(▲ 断面)

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(▲ 心柱抜き取り穴および心礎)
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(▲ 西面・北面の一部が復原されている)
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(▲ 復原されていない南面からみると小高い丘)
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(▲ 東面も一部分は復原している)
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(▲ 南側にある本来の入り口)

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(▲ 現在は東側のホテルウエルネス飛鳥路より入る)

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