鬼が消えた「不審ケ辻子町」。奈良の不思議な町名

奈良の猿沢池から少し南に行ったところに「不審ケ辻子町(ふしんがづしちょう)」という不思議な名前の町名があります。「辻子(づし)」は元々は交差点の意味である「辻」から分化して、細道・小路を意味するようになったようです。

今でも奈良市内には、百万ヶ辻子町(ひゃくまんがずし)とか今辻子町(いまづし)というのも残っています。奈良町には、昔蜂屋という長者がいた「ハッチャン辻子」とか、いつも真っ白に白粉をぬっていた人がいて、それを人々が白狐のようだと言ったところから「狐ヶ辻子」とか「キツネアン辻子」とか呼ばれていた小路があったそうです。

元々は町名ではなく、通りと通りを結ぶ小路を指す言葉だったんですね。京都にも「辻子」はありますが、町名ではなく今も小路の名前をさしてるみたいです。

それはさておき、「不審ケ辻子」という変わった名前の由来が気になりますね。

写真の説明看板にあるように「元興寺に現れた鬼を道場というお坊さんが追っかけたところ、この付近で見失ったので不審ケ辻子と呼ぶようになった」ということですが、もう少し詳しい内容を調べていきたいと思います。

キャプチャ

不審が辻子
(▲ 西側の辻子入り口付近より東を望む)

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元興寺のお坊さん

元興寺(がんごうじ)は世界遺産に登録されている寺です。蘇我馬子が飛鳥に建立した「法興寺」が前身ですが、平城京遷都に伴い718年に「元興寺」という名前で新たに建てられました。

その由緒あるお寺のお坊さんで、鬼を追っかけた「道場」法師にも伝説がありました。
それは、平安時代初期に書かれた、最古の説話集である『日本霊異記』の中に詳しく書かれています。

【敏達天皇の頃(572年~585年・法興寺588年建立開始)、尾張国のある農家に落雷と共に子供の雷神が落ちて来た。
農夫が杖で殺そうとすると命乞いをした。助けてくれれば恩返しとして、子供のいない農夫に強い子供を授けると約束をした。

農夫は雷神の言うように、楠の木で船を作りその中に水をいっぱいに入れ竹の葉を浮かべた。すると雷神はそれに乗ると、霧がかかり雷が鳴った、霧が晴れると雷神はいなくなっていた。

やがて農夫の妻が子供を産んだ。しかし、その子は頭に蛇を巻きつけ、蛇の首と尾を垂らした姿で生まれてきた。
しかし蛇はすぐに消えたので愛情を注いで育てた。雷神の言う通り子供は強い子に育った。

10歳の頃には力自慢の皇族がいるという噂により、一人都に旅立った。都で、できて間もない法興寺と、初めて見る仏像の美しさに惹かれ寺に棲みついてしまった。
数週間後力自慢の皇族の前で岩を投げ、自分の力を見せつけた。皇族はその力に圧倒され自分の敗北を認めた。

少子は、そのまま寺に棲みつき童子となった。
しばらくしてから、寺の鐘楼で夜毎に鬼に襲われて人が死ぬという事件が起きた。

童子は自分が鬼を捕まえて見せると言った。
ある夜に鐘楼で待ち構え鬼が現れた、童子はその髪の毛を捕えて引っ張り込もうとしたが、鬼は暴れて逃げ出そうとした。
夜が明けた頃に、ぶちっという音と共に鬼の姿はなくなってしまい、銀色に光る髪の毛だけが残った。

血痕をたどって行くと、寺から近い辻の小さな石碑の所で消えていた。
法師の話によると、今寺となった土地に住んでいた豪族の墓であるということであった。

その豪族は、力に任せ悪事を働いていたが、突如として死んでしまったということである。仏罰と言われいるが、荒れ地となったその土地に寺が建立され豪族が仏に怨みを抱き、怨霊が鬼になったのだろう。

その後この童子が、道場法師となった。】

不審ケ辻子の元の話は、『日本霊異記』によるものでしょうか?
奈良の「元興寺」は718年建立なので、道場法師が生きていた時代と全く違いますね。

ガゴゼ・ガゴジ

江戸時代の古書によれば、児童語の「ガゴゼ」や「ガゴジ」「ガンゴジ」は元興寺が由来とされています。妖怪の総称の意味として各地に分布しているそうです。

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(▲ 鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「元興寺」)

鐘
(▲ 新薬師寺の鐘楼)

鐘楼にあった釣り鐘が後に新薬師寺に移されており、鬼と戦った際の爪痕が残っていると伝わっています。
側面には、縦に複数の細い筋が伸びており、爪痕のようにも見えるそうです。

まとめ

奈良町風土記(山田熊夫著)によると、地名の由来については鬼の伝説の他に、町の東にある井戸の辺りにフジがあり「藤井ケ辻子」と呼ばれたのが転じたという説もあるそうです。

話としては、鬼伝説の方が面白いですが、「ハッチャン辻子」とか「キツネアン辻子」とかの例を見ると、昔の人はあまり考えてなかったように感じます。

奈良での辻子が現れたのは、東大寺・興福寺・元興寺・春日社の周辺門前郷が発達して形成された11~12世紀頃と言われています。

辻子とはメインストリートから横に入る道であったり、畑地に通じる道であったり、藪の間を抜けて二つの町(郷)を結ぶ抜け道であったり、塀と塀の間を通り抜けるだけの道であったりしている、道に向かって大きな町や寺・大邸宅の正面が向いていない単なる小道のことです。

その辻子に家並みが付着して「町」「郷」が形成され、「辻子町」となったのです。
奈良の古文書上で「辻子」の初見は、建久8年(1197年)大和東大寺文書(3-5-317) に、[僧金徳 の家地売却、東大寺国分郷押上辻子南辺]という記録があります。

現在は押上辻子の辻子部分がなくなり、押上町となっています。

辻子自体が平安時代に出来た可能性が高く、元々近所の数人しか使わない小道なので「ハッチャン辻子」とか「キツネアン辻子」のようなノリで言っていた愛称から、生まれたものだと思います。

本当は「藤井ケ辻子」が正解かわかりませんね。

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