岩渕寺(石淵寺)を探してみた(奈良市白毫寺町)

奈良教育大学から県道80号線を田原方面に進み、奈良奥山ドライブウェイ入り口を少し過ぎた、岩井川ダム管理センター付近に奈良交通の「岩渕寺口」バス停がある。

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付近に寺らしき物はないので、調べてみた。

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岩渕寺(石淵寺)はいつ創建された?

新薬師寺にある国宝十二神将は、岩渕寺から大洪水の時に流れて来たという伝説がある。塑像(粘土等の像)が大水で流れて来たとは信じられないが、岩渕寺(石淵寺)から移されてきたという説があることは確かである。
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白毫寺は、天智天皇の皇子志貴親王の離宮(山荘)を寺とし、岩渕寺の一院となったと伝えられている。

所々で、岩渕寺の名前は出て来るが、どういう寺であったかはわからない。

しかし、「今昔物語」に聖武天皇の時代のこととして「東山ニ石淵寺ト云ウ寺有リ」とし、吉備真備がその寺に参拝して、さる帝王の寵愛を得ていた霊に会い砂金千両を埋蔵していた場所を教えられ、その金で法華経を書写したという話がある。

また、弘法大師空海の師として知られる勤操大徳が、延暦年中(782年~802年)に大安寺の僧永高の没後に、解深密教1部5巻を写し五日間石淵寺で経を講じて49日忌を終わったとある。

さらに、延暦 15 年(796年) に石淵寺で勤操が、4日間『法華経』を講義したのが「法華八講」の始まりだとされる。

これらの事より、奈良時代(聖武天皇の頃)には、すでに石淵寺は存在していたものと思われる。

岩渕寺(石淵寺)はいつまであった?

西大寺田園目録に記載があり、鎌倉後期までは存在していた記録がある。しかし延宝6年(1678年)の「奈良名所八重桜」には「草むらばかりなりと」記入されており、翌年の「和州旧跡幽考」の中で、古老の伝として

石淵寺と東大寺天地院(廃寺)との間に争いが生じ、天地院の僧侶は、御笠山の東の参道を経て石淵寺に押し寄せ、石淵寺の僧侶は西の大路を経て天地院を攻め寄せ、互いに人のいない寺に火を放って両寺は同時に炎上したと伝えている。

「大和志」には「岩渕廃寺」として「在鹿野園村東」とあるため、寺跡は高円山の麓白毫寺村の西南から東方の山中と考えられる。
ここで、「岩渕寺」という名前が初めてが出て来るが、場所から「石淵寺」と「岩渕寺」が同一の寺ではないかと推測できる。

(参考資料 奈良県史6寺院)

岩渕寺口バス停に行ってみた

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バス停の横にフェンスがあり、「岩渕明神」の石碑がある。

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下の石碑に何が書かれているかは読み取れない。

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中には、石段と鳥居がある。岩渕神社(岩渕明神)があったのであろうか?

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石碑があり全面には「國龍大神と 三十二体分神は この御山にとこしえに 鎮座まします 人の誠の心を 受け取り下さいます 皆さん真っすぐな心で 大神様の 御慈悲に 救われましょう」と書かれている。

その上には、休憩所らしきものがある。
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奈良交通バスは、どういう理由でこのバス停の名前を決めたのかは不明である。
普通なら「○○神社口」とか「岩渕廃寺口」ならまだしも鎌倉時代に無くなった寺の名前がついているのが不思議である。
岩渕寺とこの神社の関係はわからないが、最近まで神社として機能していたことはわかる。
神社については、追加調査し報告したい。

(追加資料)

マイ奈良 奈良の昔話 第103回(2003年11月号掲載) 増尾正子さんより引用
【岩渕寺(いわふちでら)】
川べりの道を下っていくと、道の北側に鳥居が建っていて、岩渕寺口というバス停がある。鳥居とバス停の間には、岩渕寺と岩渕明神と刻まれた由緒ありげな二基の碑が立っている。石段を登ると、山水を竹の樋でひいた御手洗(みたらし)があり、さらに登ると、昭和三十三年に造られたという灯明台があるだけで、寺らしい建物は無いが、なんだか霊気ただよう雰囲気である。

岩渕寺という名前は、新薬師寺の有名な国宝十二神将が、創建当初の十二神将が焼失したので、鎌倉時代に岩渕寺から移されたと伝えられるので(伝説では、大洪水で岩渕寺から流れて来たといわれる。)寺名のみ知っている程度である。

「田原村史」によると“石淵寺(いわもちでら)は旧跡幽考によると「高円山の東に此寺の跡あり、俗に石淵という。」とある。開山は弘法大師の師 僧正 勤操(ごんそう)で、盛時には一千の堂坊を有したが、年代不詳時に、天地院(てんもんいん)と争いを生じ、共に兵を起こして、同時に焼失してしまった。新薬師寺の有名な十二神将(国宝)は、もと岩渕寺のもので、岩渕寺の荒廃後ここに移された。勤操和尚の作といわれる。”とある。

【寺 開山の勤操大徳について】
天平時代、大和国高市に、奏氏夫妻が仲良く暮していた。子どもに恵まれないのが唯一の悩みであったので、駕竜寺に詣でて、子どもが授かるように祈ったところ、ある夜、明星が懐に入るという霊夢を見て懐妊されたそうだ。そして、天平勝宝六年(七五四)にめでたく生れたのが、後の勤操大徳だという。

十二才で大安寺信霊の門に入り、二十三才の頃、具足戒を受け、大安寺僧として善議大徳に師事し、三論の奥義を授けられた。岩渕寺はこの頃創建されたのであろうか。
岩渕寺での伝説には、次のようなものがある。

勤操の弟子の栄好は親孝行で、僧として支給される食物をさいて、年老いた母のもとに届けていたわっていた。ところが、栄好はふとした病で死んでしまった。勤操は憐れんで母に栄好の死を知らせずに、毎日、童子に食物を運ばせていた。母は、栄好が来ないのに食事が届くのを不思議に思っていたが、やがて母も亡くなった。

勤操は栄好母子のために、岩渕寺で法華経を講じ、四日間、朝座、夕座の二座を勤めて、追善供養をしたと伝えられる。これが、岩渕八講で、現在も行じられる法華八講(経一巻を一座として、法華経八巻を八座で完結させる法要)の起りといわれる。

都が京に移ってからは、当時、造営中であった東寺(とうじ)の別当に任じられた。さらに、羅生門をはさんで東寺と対称の位置に西寺(さいじ)を造営されるにあたり、造西寺司となり、西寺の別当も兼ねた。天長四年(八二七)勤操大徳は西寺の北院で遷化され、僧正位を追贈された。

弘法大師とのかかわりは、若き日の空海を伴い、和泉の槇尾山に行って出家させた剃髪(ていはつ)の師で、虚空蔵菩薩求聞持法を授けたのが勤操大徳だと伝えられる。また、空海が遣唐僧として唐に勉学に行くことが出来たのも、勤操の力によることが大きかったと言われている。

奈良名所八重桜6巻

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第六巻に記入されている。

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(岩渕寺の記入部分)
開山は、弘法大師の御師匠贈僧正勤操(ごんぞう)にておはします。そもそも、この僧正と申すは、三倫の名徳にて独虚の観を心の内につつみ、八木の理をしたの端になめらかなり。世に明正の化身といへり。この寺もとは千坊有て、数々の霊仏霊像おはかりしが、次第次第に零落し、今はくさむらばかりなり。この所より、白毫寺・鹿野苑(ろくやおん)といふ所へゆく。
(以降は、白毫寺・羽かひ山・高円山・鹿野園・児観音・十三鐘の内容となっている。)

(前頁にある不空院の中に白乳明神の記入がありその中に岩渕寺への道が記入されている)
さて、丑寅のかなたには、同春日外院末社のうち、白乳明神(しらち)おはします。よく女人の病をいやしたまうとなり。右の鏡の明神のまへを通り、岩渕寺へゆく道有りとぞ。

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