「南都鏡神社」春日大社本殿を移築した「春日移し」の本殿が美しい

春日大社第六十次式年造替(ぞうたい)が現在行われています。20年ごとに60回、1200年以上絶え間なく行われてきたのはすごいことですね。
伊勢神宮の場合は、遷宮なのでご本殿の場所を変えて建替えています。

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(写真:春日大社中門と御廊)

春日大社は造替なので、元位置で建替えします。その間、神様は仮住まいされます。

しかし、本殿などの主な建物は国宝や重要文化財に指定されているので、本当の意味の建替えはできないので修理という形になっています。

御本殿を近くで見れるのは、神様が移殿(うつしどの)に引越しされて御本殿の修繕が開始されるまでの僅かな期間公開されていましたが、現在は修繕中なので見ることができません。

春日大社は、ご本殿が第一殿から第四殿まであるため国宝に指定指定されるまでは、造替時に古い社殿を各地に移設する「春日移し」が行われていました。現在の本殿は、文久3年(1863年)幕末の頃に建替えられたものです。

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鏡神社

鏡神社は、春日大社の享保13年(1728年)に建立された第三殿を、延享3年(1746年)の造替時に移築されたと記録されています。
移築の経緯やその当時の部材がよく残っています。

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藤原広嗣の怨霊を祀る

藤原不比等亡き後、長屋王を政権から追い落とした藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が、天平9年(737年)天然痘で死去し、藤原氏の勢いが後退し政権の首班は橘諸兄(たちばなのもろえ)となった。

橘諸兄は敏達天皇の子孫で元の名前を葛城王といい,後に母の橘宿禰を継ぐことを願い許可され,以後は橘諸兄と名乗るようになった.

天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)は,、大和から大宰府に赴任させられ、それを左遷ととらえ不満を抱いた
橘諸兄が右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。

天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文(じょうひょうぶん)を天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。

しかし、朝廷はただちにこれを謀反(むほん)と断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡(おんがぐん)に軍を構えた。

広嗣公率いる大宰府軍は広嗣公、綱手、多胡古麻呂など1万、官軍は大野東人、紀飯麻呂、佐伯常人、安部虫麻呂など1万7千であった。

10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。

その後僧玄昉は天平17年筑紫に配せられたが、観世音寺落成式に臨んだ時、急死した。世の人はこれを広嗣公の祟りとした。真備もまた孝謙天皇が即位してから肥前に左遷された。

この左遷に際し、広嗣公の霊を祀り鏡尊廟(現唐津市の鏡神社)を建てて崇められた。それ以降、霊信仰が世にあらわれた。かの頭塔伝説においては、玄昉が築紫に急死するやその遺体は奈良の地に飛散して、興福寺の境内に落ち、首は頭塔(ずとう)山に、腕は肘塚町(かいなちょう)に、眉と眼は大豆山町(まめやまちょう)に飛来したとの口碑が伝えられている。これは、広嗣信仰が背後にあったからである。

出典>>「鏡神社小誌」等

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(向かって左側の朱が鏡神社の鳥居)
新薬師寺に隣接しているので、国宝見学のついでに「国宝級」の社殿にお詣りすることをお勧めします。

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神社の前では、最近珍しい稲の天日干しをしていました。

アクセス
奈良県奈良市高畑468

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