
浄見原神社(きよみはらじんじゃ)は、奈良県吉野町南国栖(くず)の吉野川断崖に建つ神社である。
壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が吉野で挙兵した際、この辺りの国栖の人たちは皇子に味方して敵の目からかくまい、食事や酒を献じ歌舞を奏して皇子をもてなした。
そのため、この当たりの吉野川は天皇淵と呼ばれ、深い緑色のよどみが印象的だ。
天皇淵沿いの細い小道を進むと、古びた石段があり、石段の上には小さな神社には不釣り合いな舞殿と拝殿が現れる。
社殿はその上の岸壁の上にたたずむ。
神殿
神明造一間社
石灯籠
享保5年(1720)の刻銘有り
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国栖奏(くずそう)
毎年旧正月14日国栖翁の末裔により、国栖奏が奉納される。
壬申の乱の兵を挙げる前大海人皇子が吉野の宮に難を避けてた。
そのときそば近く仕えて慰めたのが国栖人だ。壬申の乱で大友の皇子が敗れ、勝利をおさめた大海人皇子が天皇の座に着いたとき国栖人はこれを祝って国栖奏を演じたということだ。
喜んだ天皇はこれを『翁の舞』と名付け以来朝廷の大事な行事には国栖奏が演じられるようになった。
その後、戦乱などで国栖人の宮中参内は絶えたが、国栖奏は今も受け継がれて毎年演じられている。
舞翁2人・笛翁4人・鼓翁1人・謡翁5人の12人が、神官に導かれて舞殿に登場する。
桐と竹と鳳凰の模様を染めた狩衣、えぼし姿で舞殿に上がり、祝詞のあと、「世にいでば 腹赤(はらか)の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月」などと一歌二歌を唱和し、三歌に続き榊と鈴を持った翁2人が音楽に合わせ優雅に舞う。
献上される神饌(みけ)は腹赤の魚(ウグイ)・酒(一夜酒)・土毛(土地の特産物である根芹=ネゼリ)・山菓(木の実=栗・かしの実)・毛瀰(アカガエル)である。
国栖奏のこと
「吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。古事記・日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文・弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
記紀には『神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である』という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
又、記紀の応神天皇(今から約1600年前)1600年前)の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人々が来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の始まりとされています。
さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起こりました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子・大友皇子と対立しました。
戦は約一ヶ月で終り、大海人皇子が勝って、天武天皇となりました。
この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祀る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。」
吉野町観光課
謡曲「国栖」と国栖奏
「謡曲「国栖」は、浄見原天皇が叛乱のために吉野に遷幸あそばされた時、老人夫婦が根芹(ねぜり)と国栖魚を供御し奉り(国栖魚の占方)、やがて追手の敵が襲って来ると、天皇を船にお隠しして(州股の渡)御難をお救い申し上げた。そして、御慰めのために天女が現れて楽を奏し(五節舞)、蔵王権現が現れて御味方申し上げ、かくて世は太平になった、という曲である。
記紀、應神記には、天皇吉野行幸の時、国栖人が醴酒と土毛(根芹)とを献じ、伽辞能舞(かしのぶ)の歌舞を奏すとあり是が国栖奏の始めである。
国栖奏は、十二人の翁による典雅な舞楽で、国栖人は壬申の乱平定に功績があったとして天武天皇(浄見原天皇)の殊遇を賜り、大嘗祭に奉奏する外、毎年元旦には宮中に召されて歌舞を奏せしめられた。」
謡曲史跡保存会
アクセス
奈良県吉野郡吉野町南国栖
近鉄大和上市駅から吉野町スマイルバスで国栖方面行きバスで約35分
南国栖隧道口下車、徒歩5分
Google等の地図には、細かい道路が入っていないので、まとめてみた。
駐車場は、数台駐車可能。有料500円