「西大寺」奈良の幻の大寺と言われるている?

奈良大仏があるのは東大寺だが、東があるなら西もある。ということで、西大寺について調べてみる。

東大寺の創建は、聖武天皇が天平13年(741)に国分・国分尼寺建立の詔を発し、金鍾山寺が大和国の国分寺と定められ、金鍾山寺⇒金光明寺⇒東大寺と昇格していった。
その後、大仏が造立され奈良の大寺となっていった。

西大寺は、天平宝字8年(764年)に聖武天皇の娘である称徳天皇(孝謙天皇)が、鎮護国家と平和祈願のために7尺の金銅製の四天王像を鋳造を発願したことが始まりとされる。

そして仏像を安置する伽藍として、平城京の東側に父聖武天皇が創建した東大寺に対し、西側に建設されることとなった。

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宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』によれば、創建当初は、平城京右京1条3・4坊に位置し31町という広大な寺域となっている。
平城京の1町は約16,000平方mとなるため、1辺約126mとなる。31町は、だいたい東西1,000m・南北500mという大きさだ。

当時の他寺院と比較すると、東大寺50町・興福寺20町・大安寺15町・元興寺15町・薬師寺10町と東大寺に次ぐ寺域を誇っていたことがわかる。

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広大な寺域の内伽藍は、東半分の右京1条3坊5~16坪に薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四王院、十一面堂院などの百十数あったと推定されている。

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しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、急速に衰退した。
平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうこととなる。

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西大寺関係略年表

764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。押勝琵琶湖湖西にて斬死。(続日本紀)
孝謙太上天皇が七尺の金銅四天王の造像と寺院建立を祈願。(西大寺資財流記帳)
765年 金銅四天王像を鋳始め、伽藍を開く。(西大寺資財流記帳)
766年 称徳天皇が西大寺に行幸する。(続日本紀)
この頃までに四王院完成
神護景雲年間 思託、八角塔の様(模型)を造る。【延暦僧録】
770年 東塔の心礎用の巨石を祟りのために破却し、焼酒を注ぎ道路に棄てる。(続日本紀)
称徳天皇崩御
772年 西塔に落雷。(続日本紀)
776年 西塔に落雷。(続日本紀)
780年 『西大寺資財流記帳』を勘録。「絵図流記」を作る。(西大寺資財流記帳)
846年 講堂(薬師金堂のことか?)佛像焼失。(続日本後紀)
860年 西大寺炎上。(和州旧跡幽考)
928年 五重塔、落雷により焼失。(扶桑略記)
962年 大風雨により西大寺食堂一宇など損壊。(日本紀略)
1138年 四王堂の再建で、別当済円を権律師に除す。(三会定一記)
1140年 食堂・四王堂・塔一基のみ残る。(七大寺巡礼私記)
1235年 叡尊が西大寺に住み始める。(感身学正記)
1238年 叡尊が、海竜王寺から西大寺に戻る。(感身学正記)
八角五重の石塔を建て、舎利を奉納。(感身学正記)
1245年 真言堂建立。(興正菩薩行実年譜)
1278年 護摩堂建立。(興正菩薩行実年譜・西大寺三宝料田畠目録)
1290年 叡尊没。((叡尊上人)遷化之記)
1307年 弥勒金堂を焼失。(一代要記)
1361年 南僧房・経蔵・湯屋等焼失。(嘉元記)
1499年 兵火にかかる。(大乗院寺社雑事記)
1502年 兵火により、塔・四王堂・鐘楼をはじめ一山焼亡。四王堂中門・石塔院・地蔵院のみ免る。
(大乗院寺社雑事記)
1624年 護摩堂建立。(西大寺関係銘文)
1633年 (元興寺)極楽院・小塔院、西大寺の末寺となる。(西大寺末寺帳)
1674年 四王堂建立。(和州旧跡幽考)
1687年 白毫寺普門院下の小塔院、西大寺の末寺となる。(西大寺集会引付)
1698年 「西大寺伽藍絵図」を描く。(西大寺関係銘文)
享保年間 阿弥陀堂・護国院建立。(西大寺関係銘文)

鎌倉時代中頃、名僧興正菩薩叡尊が寺の復興に当たり、真言律宗の根本道場として伽藍を整備した。
現在の西大寺は、この頃のプランを伝えている。

恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱

藤原仲麻呂(恵美押勝)は、叔母光明皇后の権威を背景に、聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位することにより事実上の最高権力者となった。

孝謙天皇が譲位し淳仁天皇が即位すると、淳仁天皇を擁立した恵美押勝(仲麻呂=淳仁朝以降は改名し藤原恵美押勝)は太政大臣に任ぜられ、さらに権力が与えられた。しかし、道鏡を寵愛する孝謙上皇を諌めた恵美押勝と関係が悪化するようになった。

孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・恵美押勝との対立は深まり危機感を抱いた恵美押勝は、軍事力の掌握を企て、それが孝謙上皇に密告された。

密告により、恵美押勝の動きを早くから察知していた孝謙太上天皇側は直ちに軍を動かし、わずか8日間という短期間で鎮圧され恵美押勝は近江で敗死した。
結果、恵美押勝の勢力は政界から一掃され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流され、孝謙上皇(称徳天皇)が重祚することとなった。

この恵美押勝の乱は、天平宝字8年(764)9月11日に発覚し、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願するきっかけとなった。

四天王は持国天・増長天・広目天・多聞天の4人の守護神であり、飛鳥時代に蘇我馬子と物部守屋との戦いで、聖徳太子が四天王に祈願して勝利を得たことも西大寺の金銅四天王の造像の理由であろう。また最初に四天王が祀られ、その後金堂が建立された西大寺の特異性はこのためだ。

八角七重塔から四角五重塔に変更

続日本紀に、770年東塔の心礎用の巨石を祟りのために破却し、焼酒を注ぎ道路に棄てるという記述がある。
設計変更された理由は、奈良時代末期の緊縮財政の中で縮小されたと、西大寺のHPに書かれている。

しかし、2010年のNHKで、「幻の巨大八角塔 ~古代ニッポン 最後の女帝の夢~」が放送されていて、CG再現された。直径27mの八角の基壇が発見され規模の推測で、完成すれば高さ80m以上、木造としては世界最大規模のものとなるはずである。しかし、当時の技術水準では建設が困難なものであったに違いない。

実際は、称徳天皇から実現不可能な建物の建設を強いられ、天皇崩御と共に現実的な建物に変更されたというところだろう。

そこで色々な伝説が生まれている。
「東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動かなかった。 そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運んだ。
ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出した。 そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てた。
ところが一ヶ月後、天皇が病になった。 占うと、石の祟りであると出た。 そこで捨てた石を拾い、浄地に置いた。」
その場所が現在の「破石町」とか・・。

日本霊異記に次のような話が記されている。
「左大臣・藤原永手が西大寺の塔を八角から四角に、七層から五層に変更したため地獄に堕ちた。」

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奈良時代の遺物

奈良時代の西大寺は、火災で焼失したため、創建当時の遺物をを失ってしまった。

四天王像においても、1502年(文亀2年)の兵火後に再興されたものだ。しかし、増長天が踏まえる邪鬼は創建当初のものである。

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2007年にマンション建設のため、西大寺食堂院の発掘調査が行われた。また、2013年には現西大寺境内25次調査が行われた。

その結果、奈良時代後半の食堂院の遺構を確認し、位置の確定をすることができた。
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西大寺境内25次調査では、調査面積が少なく一条の溝が確認でき溝からイスラム陶器や墨書土器や木簡などが発見されている。
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鎌倉時代の再興

荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)である。
叡尊上人は、戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、西大寺はその拠点として繁栄し、密・律研修の根本道場という新しい中世寺院として再生することになった。
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▲叡尊再興伽藍

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