紅葉で有名な談山神社は「大化の改新談合の地」、思ったよりDEEP

歴史で習った「大化の改新」は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、蘇我入鹿(そがのいるか)と蝦夷(えみし)を滅ぼして、豪族中心の政治から天皇中心の新しい政治への改革を進めたものです。

談山神社の祭神は藤原鎌足で、神仏分離令(廃仏毀釈)以前は寺院であり多武峯妙楽寺でした。寺の由来である多武峯縁起の中に「大化の改新」の裏話が詳細に描かれています。

真実はわかりませんが、物語的には面白いので紹介します。

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多武峯縁起絵巻から見る大化の改新の裏側

多武峯縁起絵巻(写本)
江戸時代/住吉如慶・具慶合筆
『多武峯縁起絵巻』は、藤原鎌足公の誕生にはじまります。 長じて中大兄皇子(のちの天智天皇)にまみえ、 当時の最高権力者・蘇我入鹿を倒して、大化改新の偉業を成し遂げたのち、 鎌足公の没後、長男の定慧が多武峯(とうのみね)に十三重塔を建立、 やがて霊廟(現在の談山神社本殿)にまつられ、藤原氏一族が繁栄するという、 談山神社の縁起を描いたものです。

日本書記には、当時の時代背景として蘇我氏親子(蝦夷、入鹿)の横暴が書かれています。蘇我蝦夷は自ら「豊浦の大臣」と称していました。
そのような中、入鹿は聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を斑鳩宮で襲撃し、自害に追い込ませました。

鎌足と中大兄皇子との出会い

鎌足は強い志があり国家革新の盟主を探していたところ、王室のまだ若い中大兄皇子(後の天智天皇)の存在を知ったのです。しかし、身分の低い鎌足には直接会う事が出来ませんでした。

皇極天皇三年(644年)飛鳥法興寺の蹴鞠会(けまりのえ)が行われ、中大兄皇子が参加することを知った鎌足は、蹴鞠会の庭で機会をうかがっていました。

そして偶然、中大兄皇子の靴が脱げ毬と共に転がりました。入鹿の嘲笑が響いた時、素早く靴を拾い掌に置いて捧げました。中大兄皇子もこれを敬して受け、二人は意気投合しました。

蹴鞠
(▲ 右側から、入鹿・鎌足・山背大兄王)

蘇我入鹿暗殺計画

蘇我氏親子は、甘樫丘に家を建て王家にならって「上宮門」「春宮門」と呼び、子息の家を「王子の家」と呼ぶなどして朝廷の権威を見下していました。

ある日中大兄皇子は、鎌足に「入鹿は暴虐であり、いかにしたら良いか?奇策を述べてほしい」と問われ「私も同じ事を考えていました。倉橋山の神山に入って考えましょう」と答えました。

絵巻
(▲ 右側が中大兄皇子・左が鎌足)

この地が現在の談山神社本殿の裏山です。
後に談所の地を「談の峯(たむのみね)」と呼ばれました。
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神山での談合にて入鹿暗殺を決め、決行を一か月後とした。こうした中で、蝦夷、入鹿に反感を持つ蘇我倉石川麻呂を同志に加えるなど着実に仲間を増やしていきました。

実行(乙巳の変)

皇極天皇四年(645年)中大兄皇子は詐って”三韓進調”を公言しその儀を飛鳥板蓋宮で行い、読唱を石川麻呂に命じその間に入鹿を断つ計画を断行しようとしました。

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(▲ 天皇の左が入鹿・正面が石川麻呂 向かって右側で中大兄皇子と鎌足が狙っている)

石川麻呂は、表文を読み始めたが緊張のあまり、身揺れ・声が震えて読み切れなくなりました。入鹿は怪しんで「なぜ震えるのか?」と問う。石川麻呂は「天皇の御座に近く恐んで不覚をとったのです」と答えました。

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(▲ 入鹿の首は高く宙を舞った)

翌日、蝦夷の反撃に備え法興寺(現飛鳥寺)に兵を集めました。王家貴族がこれに従ったため、蝦夷は観念し家に火を放ち自害しました。

乙巳の変後、軽皇子が孝徳天皇として即位し中大兄皇子は皇太子となりました。同年645年我が国初めての年号を定め、大化元年としました。

天智天皇8年(669年)鎌足は急な病によって危篤に陥り、56歳で逝去した。死の直前、天智天皇(中大兄皇子)自ら行幸して鎌足の家を訪れ、病を見舞いました。

天皇は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)を鎌足の家に遣わして、大織冠と内大臣を授け、中臣を改め「藤原朝臣(あそみ)」の姓を賜りました。ここから藤原氏が始まります。

うまく出来た物語ですね。
「日本書紀」編纂は720年、「多武峯縁起絵巻」については、鎌倉時代の多武峯の学僧永済が縁起草案文を作った縁起絵が暦仁二年(1239年)ということで、製作者の都合のいいように相当脚色されていると思われます。

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(▲ 藤原鎌足の墓)

多武峯神像破裂

鎌足の聖霊がこの地に降神して以来、国家・藤原氏に異変がるときに神山鳴動して霊像が破裂し時には異光を発し、その光は三笠山まで至る。(絵の左部分)

三笠山
それを盾に朝廷を脅迫し、主張をとうそうとする考えでしょうか。

「大職冠神像破裂目録」
大織冠尊像(たいしょくかんそんぞう)とは藤原鎌足公御神像のことです。 天下に異変が生じる時には、御破裂山が鳴動し、 この御神像が破裂(亀裂が入る)ことで知られていました。
慶長12年(1607)の破裂の際、後陽成天皇の要望により、 広橋兼勝がこれまでのこれまでの御破裂記録を編纂したものです。

 和暦 西暦  月日  和暦 西暦  月日
1 昌泰元年 898 2月7日 19 嘉吉元年 1441 2月26日
2 永祚元年 989 6月6日 20 長禄三年 1459 月日未審
3 永承元年 1046 正月24日 21 寛正六年 1465 9月13日
4 永保元年 1080 3月6日 22 文明七年 1475 2月14日
5 久安四年 1148 12月8日 23 文明十八年 1486 11月9日
6 保元二年 1157 7月1日 24 明応五年 1496 10月13日
7 応保二年 1162 2月23日 25 明応六年 1497 3月20日
8 仁安二年 1167 5月23日 26 明応七年 1498 正月1日
9 嘉応二年 1170 閏4月13日 27 永正三年 1506 9月4日
10 承安二年 1172 6月9日 28 永正七年 1510 3月4日
11 承安二年 1174 12月4日 29 永正七年 1510 11月25日
12 治承二年 1178 3月19日 30 永正八年 1511 3月29日
13 治承四年 1180 7月22日 31 尺文元年 1532 11月(日未審)
14 養和元年 1181 月日未審 32 尺文ニ年 1533 3月17日
15 元暦元年 1184 7月7日 33 尺文三年 1534 8月11日
16 文治三年 1192 11月2日 34 尺文十一年 1541 9月25日
17 承元二年 1208 4月14日 35 1607 閏4月2日
18 元亨二年 1322 2月19日

(出典 歴史樂)

多武峰街道

談山神社大鳥居(一ノ鳥居)

享保9年(1724)石造に建て替えられました。
高さ約8.5m、長さ約11.5mあるが、隣地の火災の際西側(向かって右)の石材の端部が落ちてしまいました。
石材は御破裂山の山腹から切り出されています。
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談山神社多武峰町石

一ノ鳥居から摩尼輪塔(まにりんとう)までの約5.56kmの間に参道に沿って52基の町石が建てられていた。形は板碑型で高さ約150cm・幅33cmで、江戸初期承応3年に法眼が施主となって造立しました。
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摩尼輪塔

摩尼とは、宝珠のこと。源順公の建立と伝える。八角大石柱笠塔婆の塔身に薬研彫で、『妙覚究竟摩尼輪』と彫られ、上円部に梵字『アーク』を刻む。乾元二年(1303年)の銘があります。
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石燈籠

後醍醐天皇ご寄進云々の話が伝えられ、もとは妙楽寺の何処かにあったものと考えられる。現在は談山神社本殿に至る参道の北側に置かれています。

花崗岩製の六角型石燈籠で高さは267.5cm。各部に鎌倉時代後期の特色が見られ、円柱の中節に元徳三年(1331年)の銘があります。
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屋形橋

昔から談山神社の参道に架かっていた橋は、「屋形橋」の名で親しまれて来ました。

吉野へ旅をした本居宣長は、ここに来て「うるはしき橋あるを渡り、すこしゆきて惣門にいる」と菅笠日記にしるしています。
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十三重の石塔

藤原鎌足公次男、藤原不比等(淡海公)を祭る十三重石塔です。

鎌倉時代後期の建立で、台石に永仁六年(1298年)の刻銘があります。、基壇より九輪まで約4m
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裏面は相当破損しています。

紅葉の談山神社

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紅葉は若干早かったので真っ赤まではいってませんが、雰囲気は味わえたでしょうか?

今回は、談山神社を一般の観光ルートと違う視点から見てきました。


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