「萬(万)大帳」江戸時代の奈良の暮らしが記録された貴重な資料

奈良市「東向北町(ひがしむききたまち)」というところがあります。そこには「萬大帳(よろずおおちょう)」という江戸時代初期から約240年間書き継いできた記録があります。

そこには、落語の鹿政談のように「家の前に鹿が死んでいた」、とういような内容から「どんな職業の人が住んでいたのか」とか「町の人同士のお祝い金」など当時の人の暮らしが書かれている興味深い資料です。

奈良市には同じような資料として、「井上町中年代記」というのがあり、延宝6年(1678)から一時途絶えながらも現代まで続く町記録も残っています。

江戸時代の町奉行所は町人地の維持管理には、一切の公共投資を行ないませんでした。

そのため、町の共同生活に密接に関わる道路、町会所、木戸、溝、番小屋などの共有施設の維持管理は町単位で行われていて、町内に起こるさまざまなトラブルの解決や、居住者の生活管理も自主的に行われていたことが読み取れます。

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東向北町とは

東向北町は、現在では近鉄奈良駅の北側に位置し約100世帯が住んでいます。近鉄奈良駅を地上に上がった所に、「東向商店街」のアーケードがありますが、大きな道をはさんだ北側で観光客はあまり向かわない方向です。

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(▲ 左方向に行けば東向北町です)

奈良県奈良市東向北町

「東向」という町名の由来は、江戸時代中期の「奈良街著聞記」の古老の話として、

【東向町は、昔は西側ばかり商家があって東側には家がなかった。家が東に向かうことから町名とした。
興福寺が大和国を支配していたときの権威は強大で、伽藍の近くには商家を建てることと、商家を二階建てにすることは堅く禁じられていた。】とあり、

商家が全て東を向いていたからということです。

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(▲ 江戸中期の奈良町絵図)

興福寺の築地に面した南側に、現在と同じ「花芝町」「東向北町」「東向中町」「東向南町」と東向4町にわかれている。

萬大帳とは

萬大帳は、東向北町の人々が江戸時代の初め正保2年(1645)から明治16年(1883)にわたり、町の取り決めや出来事などが記入されています。

萬大帳は縦30㎝・横23㎝と現在のA4サイズとほぼ同じ大きさです。美濃紙という和紙に書かれており、10冊が残っています。

壱番 正保2年(1645)~
弐番 元禄14年(1704)~
参番 享保6年(1721)~
四番 宝曆10年(1760)~
五番 天明3年(1783)~
六番 文化2年(1805)~
七番 文政8年(1825)~
八番 嘉永5年(1852)~
九番 安政2年(1855)~
十番 明治11年(1878)~明治16年(1883)

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萬大帳は何が書かれているのか?

もし町で鹿が死んでいたらどうなるのか?

古典落語に「鹿政談」という演目があるように、昔から奈良の鹿は「神鹿」とされ、手厚い保護が行われていました。鹿を殺すと男なら死罪、女・子供なら石子詰めという刑にされました。

有名な伝承としては「十三鐘・稚児観音・三作石子詰」というのがあります。

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これは、「ある日興福寺の小僧さん達が大勢この堂て習字の勉強をしていた処、一頭の鹿が庭へ入リ小僧さん達の書いた紙をくわえたところその小僧のー人、三作が習字中に使用していた、文鎮を鹿に向って投げました。ところがこのー投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。鹿を殺した罪は子供であれど許されず、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生埋めになリました」
元禄時代(1688~1707)、近松門左衛門がこの伝承から、浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名です。

これらの話がどこまで事実かはわかりませんが、萬大帳にも死鹿の話が記入されています。

実際、病気や野犬にかまれるなどした鹿が町で死ぬことはありました。
この時の対処方法は、町から興福寺一﨟代(いちろうだい-興福寺の雑務をつかさどる子院)に届け出て、病死であることを仕丁(しちょう-興福寺の雑務をする人)に検分してもらい、清め銭700文を払うのが決まりとなっていました。

萬大帳の中の一番古い記録は、延宝3年(1675)年の香具屋右衛門の家の入口に鹿の死骸があり、清め銭700文を町費より支払ったと記しています。700文の内訳は興福寺一﨟代に300文・仕丁2人に400文となっています。

また、東向北町・東向中町・中筋町、3箇所の辻中で鹿が倒れていた記載があります。
3町で中筋町の範囲ということとなり、中筋町が興福寺に届け出た所、一﨟代は3町とも清め銭を出すのが当然と、東向北町からは900文を出した記録があります。

東向北町では、興福寺の境内に隣接した場所柄から死鹿が多く、これ以外にも数件の死鹿処理の記載があります。

町単位で死鹿処理を行うので、落語のように早起きして自分の家の前を確認する必要はなさそうですね。

いろいろのお祝い金

参会祝儀という町の人同士のお祝い金についての記録が記載されています。

これは、お祝い事があったときには、お祝いを貰うのでなく、町内に披露する宴会などの費用を負担し、町の人全体に知って貰うものです。

主なお祝い金としては、新たに家を買い町入りする時に、購入額の10分の1を祝儀として町に納める「十分一銀」や、家の代が代わった時の「面変り」祝儀・結婚披露や元服披露・還暦披露の祝儀などがあったようです。

寄進や奉仕

春日大社の若宮おん祭りの時には、御旅所や大宿所に対して1軒につき米2升を寄進することになっていました。「萬大帳 壱番」には家数29軒で5斗8升(約80kg)となっており、毎年寄進しています。

東大寺土手普請の土運び人足を出した様子や町から酒と肴を出してねぎらったという記録もあります。
興福寺においても、南円堂の奉加銭を5年間毎月上申するなどの記載もあります。

萬大帳には町の人口や住人の職業も記入されています。

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火事の記録

東向北町が被害を受けた火災については、元禄17年(1704)と宝暦12年(1762)の大火があります。

元禄17年の大火については火災そのものの記載はなく、享保元年(1716)に記載されています。この大火で東向北町は全焼しています。

宝暦12年の大火では、2月23日奥芝辻町の「たくはつ坊主」宅から出火し、おりしの強風であおられ12軒が消失したと書かれています。

職業調べ覚え書き

寛政11年(1799)と文政2年(1919)に、職業調べ覚え書きがあります。これは奉行所に提出した書類の控えです。

東向北町の住人の仕事・屋号・名前や家内人の仕事も書き添えています。
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(▲ 萬大帳をのぞいてみよう! 東向北商店街振興組合より)

その他

その他に、町の人口のうつりかわりや、トラブルの解決顛末・地蔵会の寄進・春日太々神楽の飾り付けと作り物など、町内の記録が記載されています。

「萬大帳」は、昭和59年に奈良市指定文化財となり、現在「奈良市資料保存館」に寄託中です。

参考資料
「萬大帳をのぞいてみよう!」東向北商店街振興組合
『井上町中年代記』『万大帳』にみる近世奈良町における居住地管理  大阪市立大学生活科学部紀要・第47巻(1999)

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